梯子を一段、また一段と踏みしめるごとに、弦一郎の肺に満ちる空気が重層的な広がりを見せていく。
一階の生活臭——使い古した台所の油の匂いや、湿った土の香りが染み付いた日常——から切り離され、一段ごとに「夫」という役割の殻が剥がれ落ちていくようだった。
屋根裏へ這い上がった瞬間、鼻腔を突いたのは、昼間に彼が買い求めたあの「沈香」の、深く、そして峻烈な薫りだった。
小さな香炉から立ち上る一筋の煙が、白熱灯の淡い琥珀色の光を横切り、屋根裏の隅々にまで静寂を塗り込めている。
志乃は、そこにいた。 彼女は、いつもの清潔な割烹着を脱ぎ捨て、薄い絹の長襦袢一枚を纏って跪いていた。
光を透かすほどに薄い絹の下で、志乃の背筋が凛と、しかし微かな震えを伴って伸びている。 闇の中に浮かび上がる彼女の項(うなじ)は、四十年の歳月を経てもなお、初々しい陶器のような滑らかさを保ち、弦一郎の視線を釘付けにした。
……。
志乃の傍らには、彼女が四十年間、丹念に手入れし、滑らかに育て上げてきた飴色の麻縄が、主(あるじ)を待つ楽器のように静かに横たわっている。
彼女は振り返らなかった。ただ、その肩が微かに上下し、沈香の煙を深く、深く吸い込んでいるのが分かった。
「あなた……。ようやく、この場所へ、お迎えできましたわ」
その声は、居間で聞いた時よりもいっそう低く、湿り気を帯びていた。
弦一郎は吸い寄せられるように、彼女の背後、手の届く距離に腰を下ろした。 志乃から立ち上る体温と、沈香の香りが混ざり合い、濃厚な熱となって彼の顔を撫でる。
「……この四十年間、私はこの暗がりで、たった一人で呼吸を整えてまいりました。……バラバラになりそうな自分を、自分自身で繋ぎ止めるために。……でも、今夜からは」
志乃がゆっくりと、その白い両腕を後ろへと回した。 それは、自らを夫という名の「奏者」に委ねる、静かなる受諾の儀式だった。 「今夜からは、あなたの手で、私を包み込んでいただきたいのです。……この麻縄で、私の、居場所を失くした魂を……優しく、優しく、宥(なだ)めてくださいませ」
……。
弦一郎は、自らの指先の震えを隠すように、慎重に麻縄を手に取った。 手の中で、麻縄がわずかに「ギチ」としなる。 それは長年、志乃の孤独に寄り添ってきた証のような、艶やかな飴色の光沢を放っていた。
「志乃……いくよ」 「……はい。すべて、あなたにお預けいたします」
麻縄が、彼女の柔らかな手首の肌に触れた。 その瞬間、志乃の喉の奥から「くぅ……」と、小さな、けれど切実な溜息が漏れ出した。 ……。
弦一郎は、彼女を縛り上げるのではなく、ただ愛しむように縄を運んだ。 一巻き、また一巻き。
麻の繊維が、絹の襦袢を押し込み、その下にある志乃の確かな体温を弦一郎の指先へと伝えてくる。 志乃の肌は、麻縄の刺激を拒むどころか、吸い付くようにそれを受け入れていた。
「ああ……、そこです……」
縄が彼女の二の腕を横切るたび、志乃は微かにのけぞり、白熱灯の光に喉元を晒した。
弦一郎は、彼女の呼吸のリズムを指先に感じていた。 吐息が止まれば縄を緩め、深い吸い込みに合わせて、彼女の身体を肯定するようにゆっくりと引き締める。
それは、彼女という「楽器」の弦を、一つひとつ丁寧に張り直していくような、極めて繊細な調律だった。
縄が肌を擦る「カサリ」という微かな音が、沈香の静寂を塗り替えていく。 志乃の背中が、弦一郎の胸元に触れそうで触れない、その極限の距離。
そこには、四十年間、互いに踏み込むことのできなかった「聖域」の温度が漂っていた。
……。
「温かい……。あなたの指先が、麻縄を通じて、私の中に流れ込んでくるようです……。これまでは、冷たい縄の感触だけが私の味方でしたけれど……」
志乃の身体から、余計な力が抜けていく。 彼女の頭が、弦一郎の肩に力なく預けられた。
麻縄によって優しく包み込まれた彼女の肢体は、もはや痛みに耐えるためのものではなく、夫の慈しみを享受するための、琥珀色の「繭」へと変貌を遂げていた。
弦一郎の視界には、麻縄に縁取られた志乃の白い肌と、そこから立ち上る沈香の煙が混ざり合い、幻想的な風景を形作っている。
彼は、自らの内にあった衝動が、志乃という存在を全肯定したいという、より深い「愛」へと昇華されていくのを感じていた。
「ようやく……私は、私に戻れた気がいたしますの。……『良い妻』でもなく、『母』でもなく……ただの、志乃に」
彼女が漏らした微笑みは、白熱灯の影の中で、かつて一度も見たことがないほど無防備で、そして神々しいものだった。
白熱灯の光が、重なり合う二人の影を屋根裏の壁に大きく、歪に映し出す。
沈香の煙は、もはや二人の境界を曖昧にするほどに濃く立ち込め、窓の外から届く蜜柑の花の香りと、甘く、溶け合っていた。
土の時代に縛られ、言葉を飲み込み続けてきた四十年の歳月が、いま、一筋の麻縄によって「風」の時代、すなわち魂の解放へと昇華されていく。
弦一郎は、繭の中に眠る愛おしい存在を壊さぬように抱きしめるように、最後の一結びを、最も優しく、丁寧に締め上げた。
【守護の約束】安全配慮と免責事項
質感の深淵を歩むには、自らを律する「光」が必要です。
実践に際してのパートナー双方の肉体の安全と、魂の尊厳(精神)を守るための指針を記しました。
旅を始める前に、必ずこちらの[免責事項(守護の約束)]をご一読ください。
全ての実践は、読者ご自身の自由意志と自己責任に基づくものであることを承諾いただいたものとみなします。
