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第四章:供物の交換 ― 蜜柑の花と沈香の香り

畑の土を弄っていても、弦一郎の指先はどこか浮ついていた。  使い慣れたクワの重みが、今は志乃のしなやかな肢体を支えるあの「屋根裏の梁」の重圧に思えてならない。

土を穿つたびに舞い上がる土埃さえも、あの暗がりで白熱灯の光を浴びて踊っていた粒子の残像に見え、彼は何度も、拭っても止まぬ汗を拭った。

……。

昼下がり。志乃が近所の婦人会へと出かけた隙を突き、弦一郎は軽トラックを走らせた。  向かったのは、山を一つ越えた先にある、古くから続く香木店だ。

「いらっしゃいませ」

薄暗い店内に足を踏み入れると、幾種類もの香りが混じり合った、重厚で静謐な空気に包まれた。弦一郎は、並べられた香木を一つひとつ、食い入るように見つめる。

(志乃が纏っていた、あの香り……。ただの白粉ではない、もっと深くて、苦みのある……)

店主が差し出した「沈香(じんこう)」の小片。その火を灯す前の、冷徹でいてどこか温かみを秘めた香りを嗅いだ瞬間、弦一郎の背筋に、熱い電流が走った。

これだ。

あの屋根裏の闇で、彼女が吐息と共に放っていた、情念の香り。  彼はそれを、今の自分には分不相応なほど高価な包みとして手に入れた。

さらに、その足で町の小さな手芸店へと向かった。棚の隅に置かれていた、生成りの上質な麻糸。壁にかかっている農具の縄とは違う。肌に触れることを許された、滑らかでいて、鋼のような強さを秘めた一筋の糸。

……。

帰宅した弦一郎は、誰もいない居間の座卓に、それらを静かに置いた。  窓から差し込む西日が、沈香の包みと麻糸を琥珀色に染め上げる。

それは言葉による謝罪でも、安っぽい感謝でもない。彼女が四十年間、誰にも触れさせず、清廉に築き上げてきた「調律」という名の祭壇への、夫としての最初の供物だった。

夕闇の訪れと共に、玄関から「ただいま」という志乃の静かな声が響いた。  弦一郎は、居間の奥でじっと身を潜めるように座っていた。

志乃が居間の敷居を跨ぐ。

彼女は座卓の上に置かれた沈香と麻糸、そしてその横で硬くなっている弦一郎を静かに見つめると、一度深く目を閉じ、乱れた心を整えるように胸元を押さえた。

そして、気を取り直したように、夫の正面へとゆっくり腰を下ろした。

……。

お互い、しばらくの沈黙が続いた。

「あ……」  「あ……」

同時に上がった小さな声が、静寂の中で重なり、そして霧散した。

……。

さらに深い沈黙が居間を支配する。  西日が消え、青い闇が忍び寄る中、志乃が静かに切り出した。

「あなた。今夜、また屋根裏へいらっしゃいますか?」

志乃のその問いは、静寂を切り裂く刃ではなく、湖面に落ちた一滴の雫のように、静かに弦一郎の心に波紋を広げた。

志乃には、すべて分かっていたのだ。  彼が屋根裏の闇に踏み入り、あの清廉に保たれた葛籠(つづら)を開け、そこに整然と納められた飴色の縄に触れたことも。    そして――少し前に、彼女が彼へそっと手渡ししたあのタブレット。  彼がそれを拒まずに受け取り、幾夜も読み耽り、そこに綴られた「節子」という女の渇望の中に、妻である自分の真実を探し求めようとしていたことも。

志乃は、彼が買ってきた上質な麻糸の束を、壊れやすい宝物を扱うように掌の中でそっと包み込んだ。  伏せていた睫毛をゆっくりと上げ、弦一郎を真正面から見据える。

その瞳には、長年抱え続けてきた孤独な重荷を、ようやく最愛の夫に委ねられた者の、震えるような光が宿っていた。

「……あそこは、私の呼吸を整える場所。埃ひとつ、寄せ付けぬよう、毎日大切に守ってまいりました。……あのタブレット、読んでくださったのですね。あのように、そっとお渡しして、驚かせてしまったのではないかと……。でも、ようやく気づいてくださって、本当に、ほっといたしましたの」

……。

彼女は沈香の包みを愛しむように指先でなぞり、その香りを深く吸い込む。

「四十年前、この家に嫁いだ日から、私は『良い妻』として、この家の一部になることだけを考えて生きてまいりました。……けれど、そうすればするほど、私という人間がどこかへ消えてしまいそうになる。……それが、怖かったのです。……寂しかったのです」

志乃の視線は、座卓の木目をなぞるように彷徨い、やがて弦一郎の指先へと戻った。

「あの縄は……私にとっての、命綱のようなもの。自分を優しく包み込み、その柔らかな感触に身を委ねることでしか、私は『志乃』という一人の女を繋ぎ止めておけなかった。……誰のためでもない、私自身を慈しみ、私として生かしておくための、たった一つの、不器用な祈り。……それを、あなたにだけは知ってほしくて、あのタブレットをお渡ししたのです」

……。

「あなたが画面を見つめていたあの物語……節子の言葉は、私の心の叫びそのものですわ。……言葉にはできなかった、私の、本当の姿。……それを見つけてくださって、ありがとうございます」

彼女の吐息が、微かに震える。  けれど、その声には、弦一郎という観測者に自らを手渡したことによる、深い安らぎが混じっていた。

「今夜、あそこへいらしてください。私のすべてを、包み隠さず……あなたにお預けしたいのです。……それが、四十年間、私があなたに伝えられなかった、唯一の真実です」

控えめな言葉の裏に、命を削るような重い覚悟と、溢れんばかりの情愛が込められていた。  弦一郎は、彼女の静かな、けれど確かな招きを、逃げ場のない自覚を持って受け止めた。

二人の間に流れるのは、もはや夫婦という役割の義務ではない。  沈香の香りと、一筋の麻糸。そして、彼女の手から直接受け取った物語。  それらを媒介に、土に縛られていた二人の魂が、初めて「風」の時代へと解き放たれようとしていた。

【守護の約束】安全配慮と免責事項
質感の深淵を歩むには、自らを律する「光」が必要です。
実践に際してのパートナー双方の肉体の安全と、魂の尊厳(精神)を守るための指針を記しました。

旅を始める前に、必ずこちらの[免責事項(守護の約束)]をご一読ください。
全ての実践は、読者ご自身の自由意志と自己責任に基づくものであることを承諾いただいたものとみなします。

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