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第八章:遠景の調べ ― 湖畔の宿と漆の熱

屋根裏で啜った朝茶の温もりは、数日が過ぎた今も、弦一郎の胸の奥に確かな質量を持って居座り続けていた。

台所で立ち働く志乃の背中。

そこには以前のような「土」に縛られた重苦しさはなく、どこか風を孕んだ帆船のような、しなやかな自由が漂っている。

彼女は時折、ふとした瞬間に自らの項(うなじ)をなぞる。

そこには、昨夜の麻縄が残した「桜色の記憶」が、目に見えない刻印として彼女を支えているのだ。

……。

「あなた……。少し、遠くへ出かけてみませんか」

ふいに志乃が振り返り、濡れた手を拭いながら切り出した。

その瞳には、かつての「諦念」ではなく、新しい世界を、未知の自分を渇望する「意志」の光が宿っていた。

「遠くへ、か。……どこか行きたいところがあるのか」

弦一郎は、茶碗を置く音さえも慎重に、彼女の言葉を噛み締めた。

「はい。……若い頃、あなたが一度だけ連れて行ってくださった、あの北の湖畔の宿……」

志乃の視線は、窓の向こうの、まだ見ぬ遠景を追っているようだった。

「あそこの、沈み込むような深い闇と……そして、吸い付くような漆塗りの調度品を。……今のあなたと一緒に、もう一度、この掌で確かめたいのです」

……。

弦一郎は、記憶の底に沈んでいた古い風景を掘り起こした。

まだ二人が、互いの魂の形さえ知らずに、ただ「夫婦」という形をなぞっていた頃の旅。    あの時は、ただ形式的に観光地を巡り、何となく贅沢な食事を口にしていた。  志乃が、漆の肌に何を求めていたのかなど、一寸も考えたことはなかった。

「……ああ。あそこなら、今の俺たちにふさわしいかもしれないな」

……。

数日後、二人は軽トラックではなく、丁寧に磨き上げた乗用車に揺られ、幾重もの山を越えていた。    車内の狭い空間には、志乃の纏う、幽かな沈香の香りが満ちている。    それは屋根裏の濃密な煙ではなく、彼女の肌から自然に立ち上る、まるで体臭の一部となったような柔らかな残り香だった。

ハンドルを握る弦一郎の手は、無意識のうちに、志乃の膝の上に置かれた手に触れた。    志乃の手は、以前よりもずっと温かく、そして瑞々しい。    彼女は拒むことなく、その指を弦一郎の武骨な指に絡ませた。

それは、麻縄の結び目とは違う、けれど同じほどに強固な、魂の繋ぎ合わせだった。

車窓を流れる風景は、少しずつ「土」の色彩から、湖の「水」と、深い森の「影」の色へと変わっていく。

……。

たどり着いた湖畔の宿は、静寂そのものを建築にしたような佇まいだった。    案内された部屋の重厚な扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、窓の外に広がる、鏡のような湖面。    夕刻の光を反射させた水面は、まるで命を宿した銀の鱗のように波打っている。

そして、部屋の中央に鎮座する、見事な「根来塗り(ねごろぬり)」の座卓。    それは、この部屋の「核」として、周囲の空気を重厚に引き締めていた。    ……。

「見てください、あなた……。この漆の、吸い付くような質感を……」

志乃は、導かれるように座卓の側に膝をつき、その滑らかな表面にそっと掌を滑らせた。

漆の深みのある黒と、その下から使い込まれることで覗く、血のような朱色。    それは、幾層にも重なり合った二人の歳月そのもののようでもあり、志乃が内側に、その割烹着の下に秘め続けていた「情念」の色でもあった。

「漆は、生きているのですわ。……触れるほどに、その熱を吸い込み、私たちに返してくれる」

志乃の声は、漆の表面を滑る指先のように、艶やかに震えていた。

「屋根裏の縄と同じ……、いえ、それ以上に雄弁に、魂に語りかけてきます。……この深い闇が、私を全肯定してくれているような、そんな気がするのです」

……。

弦一郎は、志乃の隣に腰を下ろし、彼女と同じように漆の肌に触れた。    指先から伝わってくるのは、冷たさではなく、微かな「拍動」に似た、地熱のような熱だった。    漆は、触れる側の温度を鏡のように写し出す。

弦一郎の指先の荒れた溝に、漆の滑らかさが入り込み、心地よい摩擦を生む。

「……志乃。今夜は、屋根裏ではないが」

弦一郎は、彼女の耳元で、沈香の香りを深く吸い込みながら囁いた。

「この漆の闇の中で、もう一度、お前を調律してもいいか。……今度は、この静かな湖の声を聞きながら」

……。

志乃の呼吸が、一瞬、完全に止まった。    彼女はゆっくりと弦一郎の方を向き、その瞳に湖畔の夕闇を、そして弦一郎の熱を映し出しながら、深く、深く、祈るように頷いた。    「はい。……この旅に、麻縄も……連れてまいりました。……あなたの手で、この漆の闇に、私の声を響かせてくださいませ」

「誰にも邪魔されない、この風の旅先で……。……私を、もっと深く、書き換えてください」

……。

窓の外、湖を渡る風が、宿の周囲の原生林を静かに揺らし、梢を鳴らしている。    土の生活を遠く離れ、水と木、そして漆という「命の感触」に包まれたこの場所で。    二人の再構築は、さらに深く、抗いようのない官能と、張り詰めた聖性が溶け合う「第二の夜」へと向かおうとしていた。

沈香の残り香が、部屋の隅に置かれた生け花の水気と混ざり合い、新しい「調べ」を紡ぎ出す。    二人の物語は、もはや一つの家という殻を越え、広大な「風の時代」の風景へと、鮮やかに溶け込んでいく。

【守護の約束】安全配慮と免責事項
質感の深淵を歩むには、自らを律する「光」が必要です。
実践に際してのパートナー双方の肉体の安全と、魂の尊厳(精神)を守るための指針を記しました。

旅を始める前に、必ずこちらの[免責事項(守護の約束)]をご一読ください。
全ての実践は、読者ご自身の自由意志と自己責任に基づくものであることを承諾いただいたものとみなします。

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